熊本での学び①「自分の役割を直視する」
美術館で働いていらっしゃる方のお話
地震直後,美術館で展示物を片付ける作業に追われているとき。
被災現場や避難所では,人の命に関わる仕事を懸命に行っている人がいるのに,
自分はこんなところで展示物を片付けていていいのだろうか。
自分はいったい何をしているんだろうか。
ただ,展示物は,作家さんからお預かりした大切なものだから,美術館職員としてはそれを守ることが使命だということも分かっている。
もちろん自分の家もぐちゃぐちゃのままだ。
葛藤を抱えたまま懸命に働き続けた。
その甲斐あって,いち早く美術館を再開することができたとき,
来場者のみなさんの久しぶりの笑顔にほっとしたという。
「毎日辛い状況の中で,久しぶりに美術館に来ることができて嬉しい」という言葉をもらい,
美術館を守ってよかったと感じたという。
自分のやっていることが,「いま,そのとき」誰のために,何のために役に立っているのか,わからないことのほうが多いのだろう。
「いつか」誰かのために役に立つことを信じるしかない。
自然の驚異が目の前にあって,多くの命が危険に晒されていて,自分自身もいっぱいいっぱいで,
そんなときに,真に自分の役割を直視し,
葛藤を抱えたまま,自分の選択した役割を必死で担い続ける。
そんなお話を伺い,
日ごろ,自分のやっていることの意義をぐちゃぐちゃと幼稚な頭で考えたりしているけれども,真っ向から自分自身を直視することがどういうことなのかを,教えてもらった。
土曜日の朝のロイヤルホスト。
1時間以上銅像のようにおなじ体制で,身動きもせずにいるおじいさん。
コーヒーの湯気はとっくに消えている。
考え事をしているのか,していないのか。
おじいさんの視線の先に飛び込みたい衝動に駆られたり,真似しておなじ体制で5分間くらいじっとしてみたり。
新聞を4社分熟読しているおじいさん。
毎日の習慣だとすると,どのくらいの言葉を食べているんだろう。
膨大に食べて消化器官を通った言葉たちは,どこに排出されていくんだろう。
毎週おなじ女性と8時半に待ち合わせをしているというおじいさん。
今日はなかなか女性が現れないようで,店員さんに「いつもの女性」はまだ来ないのか,と尋ねている。
店員さんも,「いつもの女性」とだけでわかっているようで,まだですねと答えながら一緒にお店の外を見たりして。
9時5分,未だ待ち人来ず。
4度目の店員さん呼び出し,なぜ来ないのか,と尋ねている。
どうされたのでしょうね,としか答えようのない店員さん。
9時15分,「いつもの女性」がやっと現れた。50代後半かな。
女性は遅れたことを詫びることもなく,簡単な挨拶だけで,ふたりで黙々とトーストを食べて,食べ終えるとすぐに女性が帰っていった。
若干30歳の私には想像が追い付かない関係。
70代くらいの常連のご夫婦。
ふたりで,とってもゆっくりと,丁寧に,そして美味しそうにパンケーキをフォークとナイフで味わっている。
ドリンクバーのコーヒーは奥さんが取りに行く。
1度に1人分しか運ばないから,1度につき2往復。
店員さんがおかわりお持ちしましょうか?と尋ねても丁重に断り,
自分たちのタイミングでおかわりに立つ。
この老夫婦2人だけの間に流れている穏やかな時間。
平均年齢高めな土曜日の朝のロイヤルホスト。
空想の世界でいろんなお客さんの隣に座って味わう薄めのコーヒーは,穏やかな冬の味。
それぞれの人にとって,きっといつもの週末の朝。
こういった,当たり前に過ごせる週末の朝が,ずっと当たり前のようにやってくることが,いちばんの幸せなのかな。
チェルノブイリへの旅 【⑤ツアー編】 CHERNOBYL TOUR
さて,ツアーの開始。
30km圏内に入るところで,いったんバスを降り,パスポートチェックを受ける。
さらに10km圏内でもチェックは入るが,個人的にパスポートを見せるようなことはなく,怖そうな表情をつくった男性がバスに乗り込んできて,車内をざっと見渡すだけで終了。
そこから発電所まで向かうバスの中から見える景色は,廃墟や枯れた木々,時々動物。
要所要所でバスを降り,お家にお邪魔したり,モニュメントを見たり。
私は希望しなかったから放射線量を測定するカウンターは持たなかったけど(ツアーの申し込み時に予約すると,有料で借りることができる),持ってる人たちは,高い数値をたたき出しながらビービーなり続けるカウンターを見て笑ったり,うるさいって言ってスイッチを切ったり。
家の中は,本当に生々しい。
避難命令が発令され,ほんの少しの時間で必要なものだけをまとめて家を後にしなければならなかった。数日で帰れると思っていたけど,実際には二度と帰ることができなかった。
いつも遊んでいただろう人形や,ベッドわきに置いてある絵本,お気に入りだっただろうマグカップ…がその事実をありありと示している。
発電所は,今でも完全停止はできていない。
100年持つと言われている巨大シェルターも,巨大ゆえに,むなしく見える。
100年たったら,またその上から頑強なシェルターをかぶせるのかな。
壊すこともできない,埋めることもできない,
ただ厚塗りに厚塗りを重ねていくのみ。
ひたすらひたすら廃墟を歩き続ける。
学校やマンション,ダンスホール,遊園地…
廃墟を歩きすぎて,なんだか思考停止しかけてた。
今,何を見てるんだろう。
自分が何を考えているのかも,どう感じているのかも,わからなくなってくる。
ものすごい量の粉塵が,マスクもしていない口や鼻から入ってきて,息苦しい。
でも,息苦しいのは粉塵だけのせいじゃない。
たまらなかったのは,本や教科書をガシガシと踏みつけながら歩くこと。
ここにあった生活を,容赦なく踏みつけてる自分たちが,恐ろしくなってきた。
止まったままの観覧車。
時が止まってしまった街を象徴するかのように,そこに立ち続けてる。
飛び出し注意の標識が,皮肉に目に映る。
ゴーストタウン。
でも,そんな街でも生きているものもちゃんとある。
赤いかわいい実をつけた木を見て,自分の中の止まりかけたものが少し動き出す。
ランチはオプション。
せっかくだから,作業員たちが食べている食事をいただいてみたくて申し込んでいた。
建物の入り口で被ばく量をチェックして,中に入る。
ガランと広い食堂。
一列に並び,サラダからスープ,メイン,パン,飲み物の順にとっていく。
しょっぱいジャガイモのスープや,しょっぱいオムレツ,甘すぎるサラダやジュース。
甘そうなパン。
味うんぬんではなく,
いろいろと見て回った後ではまったく食欲がわかず,
でも残しすぎるのも申し訳なく,重い口を動かした。
ランチ後は,旧ソ連の秘密基地にお邪魔した。
どでかい↓これで,ミサイルを感知していたらしい。
一日中歩き回り,17時ころになってツアー終了。
10キロ圏内を出るときに,全員被ばく量をチェック。
何とも言えない表情の犬に見送られて,チェルノブイリを後にした。
帰りのバスでは,脱力感と虚無感と,その他ぐちゃぐちゃの心と頭を抱えながらぼーっと景色をみていた。
行きのバスの中ではわいわい楽しそうにしていた周りの人たちも,さすがに疲れ切って爆睡。感想を語り合う人はいなかった。
疲れもあるだろうし,すぐに語り合う言葉が見つからないでいるようにも見えた。
私自身,思考停止状態から抜けきっておらず,今こうやってブログを書きながらやっと考え始めている。
ということで,次回は思った感じた考えたことをつらつらと書きます。
おわり!
チェルノブイリへの旅 【④ツアーのスタート編】 CHERNOBYL TOUR
26日でチェルノブイリ原発事故から30年(1986年4月26日)。
スペースシャトル チャレンジャー号が爆発したのも1986年。
今や酒豪に成り下がった私が純粋無垢な産声をあげたのも1986年。
…3大事故みたいに言っちゃった。
さて,チェルノブイリツアーについて。
ルートの全容は…
こんな感じ。↑これは,参加証のようなもので,受付時にもらえる。
ちょこっと早起きして朝7時30分頃,キエフの中央駅から少し離れた集合場所に。
せいぜい5~6人くらいかな?
みんなウクライナ人だったらどうしよう??
ウクライナ語で”おはよう”ってなんだっけ???
なんて思いながら,キエフの朝のまちを歩いていくと,
おっ?おぉっ?
おっきなバスいるし?人いっぱいいるし?まちがってないよね?
バスのフロント部分…
このマーク。確かにこのバスで間違いない。
想像以上の盛況におどろく。
今回の1day tourの参加者は40名程度。
ガイドも英語,聞こえてくる参加者の会話も英語がほとんどで一安心。
バスの乗車口でパスポートチェックとツアー料金の支払い。
「ワォ,日本からか!楽しんでってねー!」的な軽いノリのスタッフに,おどろく。
何よりのおどろきは,タトゥーを入れた“チャラい”若者たちが,ボリボリお菓子を食べ,楽しそうに会話をしながら遠足気分で参加している姿。
意識高い系の人の集まりかと思いきや…
車内ではシーーンとガイドさんのお話を聞くのかと思いきや…
時にはハンカチで涙をぬぐったりするのかと思いきや…
ほとんどの人が遠足にでも行くかのようにキャッキャ楽しくしている。
途中休憩所では,さらにお菓子やらジュースやら買い込んでるし…。
…あ,じゃぁわたしも買っとく。
…ということで,おどろきの連続でツアーの幕開け。
若い世代がチェルノブイリに興味を示し,ツアーへの参加も多いワケは後から知った。『S.T.A.L.K.E.R.』というチェルノブイリ原発を舞台としたゲーム( https://ja.wikipedia.org/wiki/S.T.A.L.K.E.R._SHADOW_OF_CHERNOBYL )が流行し,ゲームをきっかけに,実際に現場を見てみたいという若者が急増したらしい。
ちなみにストーカーというのは,事故後,いろんな動機からチェルノブイリに近づく人たちのこと。だから,今回,わたしも人生初のストーカー。
ゲームのせいでかなりの誤解も生まれてしまっているようで,賛否両論あるらしいけれども,どんなきっかけであれチェルノブイリという地や,原発について興味を持って近づき,学んでくれるのであればそれでいいという想いを持つ現地の人も多いという。
私としても,チャラい若者たちが楽しそうにしていることに初めはおどろいたものの,でもそれがとても"良いこと"のように感じた。
学びに来ました!と,"分厚いメガネ"をかけて現場を見て,盲目的に現場を捉えて帰るよりも,
悲惨だわ!ひどすぎるわっ!!と,感情むき出しで現場を見て,自分の感情をさらに高めるだけで帰るよりも,
自然体で,ちょっとしたきっかけ,ちょっとした興味で参加して,ひとつひとつ目にするごとに,ゆっくりと,じっくりと,自分なりに咀嚼していくことが,本当の学びなのかなぁって。
さてさて,道中,こんな注意書きを読まされる。
危険区域内ではお酒とドラッグはダメとか,
外でごはん食べたりタバコ吸っちゃダメとか,
モノを持ち帰っちゃダメとか,
全身を保護するような服装にしてねとか。
いやいや,半そで半ズボンでスキンヘッドのおじさんおるやん。
そんなこんなで,バスに揺られること2時間程度で30キロ圏内に到着。
いよいよ危険区域内でのツアー開始。
長くなったので今回はここまでー。
チェルノブイリへの旅 【③博物館の知識編】 CHERNOBYL TOUR
博物館で知ったチェルノブイリ原発事故に関する事と,それについて感じた・考えたことを項目ごとにつらつらと。ちょっと長文。
(注)知識・感想ともに小学生レベル(小学生に失礼!)
【博物館について】
事故後6周年目に,原発から直線距離で110㎞離れたところに創設。
もともと,1912年に建てられた火の見櫓のあった消防署の建物を,キエフの消防士たちが改装した。
現在,7000点の展示物(すべて本物で,除染・消毒済みのもの)
創設から20年間で95か国100万人以上の来館者。
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⇒わかりづらい場所に,わかりづらい建物。ただ,すぐ入口,すぐ受付,すぐ展示という,構え無しにスッと入れる場所。凝った建物じゃなく,日常の一部。
【あこがれの原発】
原発事故当時,16基の原子炉が稼働していた。科学博士は,原発の安全性を声高らかに公言し,運転を停止せずに燃料を追加し,常に稼働し続けることのできる生産性の高い発電所であり,大きく経済・産業発展を支えるものであるとされ,市民は喜びや誇りのまなざしを向けていた。
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⇒喜びや誇りの象徴であったものが,一夜にして,一瞬にして,憎しみや悲しみに豹変する。原発に限らず,人間のつくりだすものすべてに対して言えること。だからこそ,驕り高ぶっちゃいけない。傲慢になっちゃいけない。
【作業員たち】
多くの作業員の写真が展示されており,代表的な人物の活動記録が聞ける。
例えば・・・
爆発後最初の犠牲者は,中央指令所の35歳の運転員であり,死体は見つかっていない。29歳の作業員がみずから犠牲となり,ドアを閉めて放射能が漏れないようにしたため,多くの人が救われたが,自身は死亡。死亡後,ウクライナの最高章である英任勲章が授与された。など,多くのストーリーを聞くことができる。
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⇒多くの作業員たちが,自分と同じくらいか年下。
それぞれに,ゆっくり考える余裕もなく,迅速な決断を迫られ,行動を迫られた。
29歳の作業員の行動,
三浦綾子の『塩狩峠』で描かれている”自己犠牲の精神”とは,似て非なるものを感じた(宗教のことをまったく理解していないので,私なりの感じ方でしかないですが)。
自分の行いとは全く関係のない偶然遭遇した危機的状況で,自分の信念に従って(もしくは自分の命への執着がなく),思わず(もしくは一瞬のうちの冷静な判断によって),自己犠牲的な行動をとって周囲を助けるのと,
自分の職務中の,責任を伴った自己犠牲的行動は,違うだろう。
私だったら,どうするか?どうできるか?考えずにはいられなかった。
勲章の授与は,残された者たちにとっての,せめてもの救い・支えだろう。
【加害者とされ,政府からも罪を被らされた作業員たち】
特に,原発事故の加害者とされてしまった作業員たちの記録は,原発事故の情報遮断の大いなる反省の意味も含めて強く語られ,展示されている。
26歳の主任技師,33歳の4号機夜勤作業班長が事故の加害者とされた。
本人たちは,問題発生時も原発全体を完全に停止させてはならないと,問題対処にあたりながらも,スケジュール通りに手動で原子炉の動きを保っていた。
1986年8月に行われたIAEAにおいて,ソ連政府の正式報告においても,まるで作業員たちを非難するような報告が行われた。
放射線被ばくによって苦しみながら5月に亡くなった作業班長の遺書には,
『私はすべてをただしく作業していただけだ』と記されていた。
その後,59冊にもわたる調査報告書がまとめられ,13バージョン作成されたなかで1つの調査書が採用され,そこでは原発の世界基準に照らし合わせると,あきらかにチェルノブイリ原発には設計上の欠陥があったことが指摘された。
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⇒アウシュビッツにおけるアイヒマンと同じだと思った。彼も,決して冷酷無人な人ではなく,ただ命令に従ってボタンを押していただけだという(このことを扱った映画『ハンナ・アーレント』を以前観て,ぐちゃぐちゃいろいろと考えたことが多くて誰かと話したいとずっと思っている)。
たまたま,その日夜勤だった作業員が,マニュアルに従って行動し,故に政府からも加害者扱いされた。なぜ起きたのか,どうしたら防ぐことができたのか,どう対策を取ればいいのかを明確に議論する前に,誰が悪いのかの責任の所在を争って擦りつけて片づける,これってどの国でもどの時代でも,大なり小なり多く起こっていること。
彼はどんな想いで遺書をしたためたのだろう。
【リクビダートル】
チェルノブイリ原発事故の処理・復旧活動に従事した人々をリクビダートルと呼ぶ(国家登録)。リクビダートルの総数は60~80万人,うち1986年と1987年に作業にあたった約20万人が大きな被曝被害。事故処理作業時の平均年齢は約35歳。
リクビダートルは,ソ連政府から表彰され,危険な労働の代償として住居・高額の年金・無料の医療などが生涯保障された。
ソ連崩壊の後,ウクライナ・ロシア・ベラルーシの政府に引き継がれ,経済の低迷が続くなか,年金の大幅な削減,医療費の事実上自己負担が進んでいる。
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⇒CNNの番組で,事故直後に作業員としてチェルノブイリに派遣された人たちの印象的な声があった。
「恐怖や不安を感じていたのは,最初の1日だった。それ以降は,ただ仲間たちと働くだけ。仕事をして生きていくという普通のことをやっているだけで,恐怖も特別感もなくなる。休憩中に煙草をすったり,仕事終わりに仲間たちと楽しくお酒を飲む。
お酒を支給してもらってたから,妻からは「あなた幸せね」とまで言われたよ。」
と笑いながらインタビューに答えていた白黒映像。
そうなんだろうと思う。
もちろん,今でも危険な場所で働いていることを誇りとして作業を続けている作業員もいるという。ただ,その人たちを特別な人たちのように視ることはちがう気がする。どんな仕事をしているとしても,それがその人の日常になる。
住んでいるところだってそう。チェルノブイリや周辺地域は,汚染された場所・研究対象の場所・見世物でもなんでもなくて,誰かの故郷で,誰かの生活の場。
なにをするのかじゃなくて,置かれている場でどう生きるかに尽きるんだと思う。
【情報の遮断】
1991年にウクライナが独立するまで,原発事故に関する情報が遮断されており,多くの重要な情報が提供されていなかった。事故当時も,住民向けの簡単な被ばく予防策すらマスコミで報道されず,多くの健康被害を生んだ。事故の10日後に一部マスコミによってようやく簡単な安全対策が発表された。
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⇒世界初のことで情報がない&現場で起きていることは情報遮断される&健康被害や簡単な対策すら後手後手の発表ということで,防ごうと思えば防げただろうことも防げないその場しのぎの対策がとられたり,誤った判断・決断がなされ,被害が拡大した。
ただ,それによって(そのおかげでと思っている科学者もいるのでは),得られた知見がものすごくたくさんあるということ。
原子力発電のシステムや構造の脆弱性,放射線被ばくによる生態系(人や動物のからだ,森林…)への影響など,情報がないために拡大した問題があったからこそ,得られた知見が多かった。
言葉を選びきれていないので,語弊がありすぎるかもしれないが,このものすごく大きな”皮肉”が,頭にこびりついて離れない。
次回は,チェルノブイリツアーについて。
チェルノブイリへの旅 【②チェルノブイリ博物館の概要編】 CHERNOBYL TOUR
知識と心構えを持つために,ツアー前日に国立チェルノブイリ博物館へ。
http://chornobylmuseum.kiev.ua/ja/mainpage-2/
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今回は,知識として得た情報は省略して,概要を記し,知識編は次回。
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入館料はたったの100円程度。オプションで,音声ガイドのイヤホンを借り,撮影許可をつけても1000円いかない。福島原発事故以来,日本人訪問者が増えたことで日本語ガイドも追加されたらしい。急いで追加したせいか(?),ガイドは噛み噛みだが,ときどき気持ちが入り込みすぎているときに,ふっと軽くしてくれて冷静になれるので,いいことかも。
入口ホールは特別展示会場であり,常にテーマを変えて展示。現在は福島の原発関連。
チェルノブイリの事故から学んでいないことを怒るわけでも,同じ苦しみを抱えていることへの同情を示すわけでもないような,落ち着いた展示。
正面の象徴的な階段を上がると,そんなに広くはないスペースに,ぎっしりと,それはもうぎっしりと展示物がある。
最初に目に飛び込んでくるのは,
この,爆発時間で止めてある時計。
そこで時がとまってしまったような,なにも進歩していないことを訴えるかのような。
そして, ⇓ のような展示が,テーマごとに多く並ぶ。
ショーケースごとにかなり丁寧な解説を聞くことができるため,なかなか先に進まない。
このような,当時の写真もたくさん展示してある。
このような,一目で放射能被害の恐ろしさを実感できるものもある。
解説をじっくりと聞きながら進んでいくと,3時間では足りない。
当初,1時間ちょっとくらいで出るつもりが,"気づけば"閉館時間に近づき,急かされたくらい。
今回の一番の感想は,
2年前にインドネシア・アチェの津波博物館を訪れたときと同じようなこと。
http://museumtsunami.blogspot.jp/
津波博物館でも,「普段の集いの場,遊ぶ場となってほしい。」とおっしゃっていたし,今回のチェルノブイリ博物館も「デート場所となってほしい」という想いが込められているという。
”遊びのない”,勉強すべき場としての博物館ではなくて,
”遊びの部分をもたせながら”,気づけば学びの場になっているという博物館。
あまりにも強く訴えかけ過ぎられていたら,感情ばかりが働いて,冷静な記憶が残らなかったかもしれないし,自分なりに受け止めてじっくりと考察することができなかったかもしれない。
フィクション映画であれば,感情体験だけが残ったとしても問題ないけれども,事実を知るだけではなくて,考えてもらうためには,少しばかりの余裕を持たせて,他人ごとではなく,”自分なりに考える”ことを支えることが,大切なのかなーって。
もしくは,勉強しに来てください!と訴えられると,その場の知識(ある意味,教科書的な知識) になってしまうけれども,日常的な生活の延長線上で訪れることで,知ったことや気づいたことが,スーッと自然に自分の生活の中に入り込みやすいのかなーって。
自分なりに考えてほしい・風化させたくない・当事者意識を持ってほしい…,そんな強い想いを実現するための,”遊び”の部分を含む控えめな仕掛けは,いろんなことに通じる気がする。
チェルノブイリへの旅 【①導入編】 CHERNOBYL TOUR
「そうだ,京都へ行こう」と同じ感覚で,
「そうだ,チェルノブイリへ行こう」とシャワーを浴びながら思いつく。
原発反対の活動者でも,意識高い系の啓蒙家でも,慈悲深い善人でもない。
鐘が響いたら耳を澄ませるだけじゃなくって,その鐘を見に行きたくなるだけ。
思い立ったら即行動。
タオルで髪のしずくをふきながら,とりあえずお休みもらえそうな1週間ほど確保し,往復の航空券を購入。
ホテルの予約や,その他もろもろ考えないといけないこと,しなきゃいけないことはたくさんある気がするけど,飛行機で飛んでって,ツアーへの参加が許可されていれば問題ない。ツアーに参加するためには,4~7日前に予約完了しておかないといけない。
ちなみに参加したツアーはここで,1 day tourに参加。
CHORNOBYL TOUR® - Official provider of the Chornobyl zone, ChNPP, Pripyat-town. Top-quality trips.
予約時に伝えるパスポート情報が少しでも違っていたら当日参加できない。
私が生まれた1986年にチェルノブイリ原発事故が発生した。同じ歳。
響くものはそれだけだったのかもしれない。
それ以外の知識はゼロ。
周囲の反応は,「チェルノブイリ行ってくるー!」という私のノリに,
「ん???(゚Д゚) 突然どうした?壊れた? (゚Д゚) 」(←ですよね)や,
「さすがやね!」(←わたしどう見られとるんやろ)や,
「いいなぁ」や,
「ちぇ?ちぇるのぶいり?って,なに?」(←おぉ,これが現実か!)
など,さまざま。
これまでも,何か国かをひとりで旅してきた私なので,また海外逃亡することへの驚きはゼロだったけど,その行先に当然の反応。
事前勉強もなにもしていないのは,さすがになぁ…と思い,
ツアー前日にキエフにあるチェルノブイリ博物館に行って知識を蓄え,免疫をつけておくことに。チェルノブイリ博物館についての詳細は次回。
チェルノブイリツアーの感想をシェアしようと思い,Facebookで長文は書きづらいので,人生初のブログ開設。