チェルノブイリへの旅 【③博物館の知識編】 CHERNOBYL TOUR

博物館で知ったチェルノブイリ原発事故に関する事と,それについて感じた・考えたことを項目ごとにつらつらと。ちょっと長文。
(注)知識・感想ともに小学生レベル(小学生に失礼!)

 

【博物館について】

事故後6周年目に,原発から直線距離で110㎞離れたところに創設。
もともと,1912年に建てられた火の見櫓のあった消防署の建物を,キエフの消防士たちが改装した。
現在,7000点の展示物(すべて本物で,除染・消毒済みのもの)
創設から20年間で95か国100万人以上の来館者。

----------------------------------------------------

 ⇒わかりづらい場所に,わかりづらい建物。ただ,すぐ入口,すぐ受付,すぐ展示という,構え無しにスッと入れる場所。凝った建物じゃなく,日常の一部。 

 

【あこがれの原発

f:id:AzusaKikuchi:20160413152731j:plain

原発事故当時,16基の原子炉が稼働していた。科学博士は,原発の安全性を声高らかに公言し,運転を停止せずに燃料を追加し,常に稼働し続けることのできる生産性の高い発電所であり,大きく経済・産業発展を支えるものであるとされ,市民は喜びや誇りのまなざしを向けていた。

-------------------------------------------------------

⇒喜びや誇りの象徴であったものが,一夜にして,一瞬にして,憎しみや悲しみに豹変する。原発に限らず,人間のつくりだすものすべてに対して言えること。だからこそ,驕り高ぶっちゃいけない。傲慢になっちゃいけない。

 

【作業員たち】

f:id:AzusaKikuchi:20160413152928j:plain

多くの作業員の写真が展示されており,代表的な人物の活動記録が聞ける。
例えば・・・
爆発後最初の犠牲者は,中央指令所の35歳の運転員であり,死体は見つかっていない。29歳の作業員がみずから犠牲となり,ドアを閉めて放射能が漏れないようにしたため,多くの人が救われたが,自身は死亡。死亡後,ウクライナの最高章である英任勲章が授与された。など,多くのストーリーを聞くことができる。

-----------------------------------------------------------

 ⇒多くの作業員たちが,自分と同じくらいか年下。
それぞれに,ゆっくり考える余裕もなく,迅速な決断を迫られ,行動を迫られた。
29歳の作業員の行動,
三浦綾子の『塩狩峠』で描かれている”自己犠牲の精神”とは,似て非なるものを感じた(宗教のことをまったく理解していないので,私なりの感じ方でしかないですが)。
自分の行いとは全く関係のない偶然遭遇した危機的状況で,自分の信念に従って(もしくは自分の命への執着がなく),思わず(もしくは一瞬のうちの冷静な判断によって),自己犠牲的な行動をとって周囲を助けるのと,
自分の職務中の,責任を伴った自己犠牲的行動は,違うだろう。
私だったら,どうするか?どうできるか?考えずにはいられなかった。
勲章の授与は,残された者たちにとっての,せめてもの救い・支えだろう。

 

【加害者とされ,政府からも罪を被らされた作業員たち】

特に,原発事故の加害者とされてしまった作業員たちの記録は,原発事故の情報遮断の大いなる反省の意味も含めて強く語られ,展示されている。
26歳の主任技師,33歳の4号機夜勤作業班長が事故の加害者とされた。
本人たちは,問題発生時も原発全体を完全に停止させてはならないと,問題対処にあたりながらも,スケジュール通りに手動で原子炉の動きを保っていた。
1986年8月に行われたIAEAにおいて,ソ連政府の正式報告においても,まるで作業員たちを非難するような報告が行われた。
放射線被ばくによって苦しみながら5月に亡くなった作業班長の遺書には,
『私はすべてをただしく作業していただけだ』と記されていた。
その後,59冊にもわたる調査報告書がまとめられ,13バージョン作成されたなかで1つの調査書が採用され,そこでは原発の世界基準に照らし合わせると,あきらかにチェルノブイリ原発には設計上の欠陥があったことが指摘された。

-------------------------------------------------------------

アウシュビッツにおけるアイヒマンと同じだと思った。彼も,決して冷酷無人な人ではなく,ただ命令に従ってボタンを押していただけだという(このことを扱った映画『ハンナ・アーレント』を以前観て,ぐちゃぐちゃいろいろと考えたことが多くて誰かと話したいとずっと思っている)。 
たまたま,その日夜勤だった作業員が,マニュアルに従って行動し,故に政府からも加害者扱いされた。なぜ起きたのか,どうしたら防ぐことができたのか,どう対策を取ればいいのかを明確に議論する前に,誰が悪いのかの責任の所在を争って擦りつけて片づける,これってどの国でもどの時代でも,大なり小なり多く起こっていること。
彼はどんな想いで遺書をしたためたのだろう。

 

【リクビダートル】

f:id:AzusaKikuchi:20160413153148j:plain

チェルノブイリ原発事故の処理・復旧活動に従事した人々をリクビダートルと呼ぶ(国家登録)。リクビダートルの総数は60~80万人,うち1986年と1987年に作業にあたった約20万人が大きな被曝被害。事故処理作業時の平均年齢は約35歳。
リクビダートルは,ソ連政府から表彰され,危険な労働の代償として住居・高額の年金・無料の医療などが生涯保障された。
ソ連崩壊の後,ウクライナ・ロシア・ベラルーシの政府に引き継がれ,経済の低迷が続くなか,年金の大幅な削減,医療費の事実上自己負担が進んでいる。

-----------------------------------------------------------

⇒CNNの番組で,事故直後に作業員としてチェルノブイリに派遣された人たちの印象的な声があった。
「恐怖や不安を感じていたのは,最初の1日だった。それ以降は,ただ仲間たちと働くだけ。仕事をして生きていくという普通のことをやっているだけで,恐怖も特別感もなくなる。休憩中に煙草をすったり,仕事終わりに仲間たちと楽しくお酒を飲む。
お酒を支給してもらってたから,妻からは「あなた幸せね」とまで言われたよ。」
と笑いながらインタビューに答えていた白黒映像。
そうなんだろうと思う。
もちろん,今でも危険な場所で働いていることを誇りとして作業を続けている作業員もいるという。ただ,その人たちを特別な人たちのように視ることはちがう気がする。どんな仕事をしているとしても,それがその人の日常になる。
住んでいるところだってそう。チェルノブイリや周辺地域は,汚染された場所・研究対象の場所・見世物でもなんでもなくて,誰かの故郷で,誰かの生活の場。
なにをするのかじゃなくて,置かれている場でどう生きるかに尽きるんだと思う。

 

【情報の遮断】

1991年にウクライナが独立するまで,原発事故に関する情報が遮断されており,多くの重要な情報が提供されていなかった。事故当時も,住民向けの簡単な被ばく予防策すらマスコミで報道されず,多くの健康被害を生んだ。事故の10日後に一部マスコミによってようやく簡単な安全対策が発表された。

-----------------------------------------------------------

⇒世界初のことで情報がない&現場で起きていることは情報遮断される&健康被害や簡単な対策すら後手後手の発表ということで,防ごうと思えば防げただろうことも防げないその場しのぎの対策がとられたり,誤った判断・決断がなされ,被害が拡大した。
ただ,それによって(そのおかげでと思っている科学者もいるのでは),得られた知見がものすごくたくさんあるということ。
原子力発電のシステムや構造の脆弱性放射線被ばくによる生態系(人や動物のからだ,森林…)への影響など,情報がないために拡大した問題があったからこそ,得られた知見が多かった。
言葉を選びきれていないので,語弊がありすぎるかもしれないが,このものすごく大きな”皮肉”が,頭にこびりついて離れない。

 

次回は,チェルノブイリツアーについて。